昭和54年12月11日 朝の御理解
御理解 第8節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
神の悲願という事を申しますが、神様が悲しいまでに、人間氏子の助かりを願うておられるという事。私は昨日ご本部から帰ってもう早速あの御月次祭でございましたから、お祭りを仕えさせて頂いて、帰りましてすぐお届けを聞かせて頂いたんですけれども、話を聞けば聞くほどに、まぁ言わば哀れなお話なんですけれど、もうどうにも出来ないというどころ。もうとにかく合楽の親先生におすがりするより他に、もう他に手はないというお届けを聞かせて頂いてお祭りに入ったんです。
その事が頭にございましたから、あの御祈念の時にもやっぱその事が、まぁ心にかかりましたから、御祈念をさせて頂いとりましたら、その方がこう万歳をしておる姿を頂いたんです。この万歳というのは、あの何々万歳という感じではなくて、もう神様の前にもろ手をあげてもう全面的に降伏、もう私の知恵やら力やらでは、もう手はないという感じの万歳です。そしたら何か知らんけれども、感動が湧いて感動が湧いて。昨日お説教台の前に立たせて頂いただけで、何か感動が湧くんですよね。
何かこうお話が出来ないくらいに、しばらくありました。後から考えてみて、また今朝からこの御理解を頂いて思わせて頂く事なんですけれども。確かに神様はくずの子があれば、そのくずの子がかわいいのが、この親心じゃとこう仰せられる様に。もう私の知恵力では、どうにも出来ないところまで来ております。もうあなたのおかげを頂くよりほけに手はございませんと、私共が神様の前に言うなら無条件降伏を致しました時に。もう親神様としては、そのくずの子ほどかわいいと言う神様の情念が。
昨日は私に伝わってきたであろうと、今日この御理解を頂いて初めて思わせて頂きました。万歳というのは八の字の反対ですよね。こうすると八の字になりますよ。八の字といやもう広がりに広がる。この氏子がここに気がついて、ここから本当の広がりに広がるおかげを頂く事が出来るんだと、いう風に思わせて頂きました。ですから結局信心とは結局神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんのだという事が、実感的に分かるところから本当の繁盛の基礎というものが、出来るんだと言う事ですね。
もうお縋りするより他に手はないという事なんです。そこから私は神様の働きというものは生まれてくると思うです。信心とはそういう例えば、難儀な事にならなければ分からないというのではなくて。その道理を分からせて下さると言う事が信心なんです。私がとまだ言う間は本当なことじゃない。ところが中々ないようにしてありますもんですよね。昨日も、御月次祭を頂き終わってから、昨日の神饌がもう実にすっきりと見事に出来てました。特に果物お野菜乾物なんかはもう実に見事でした。
それで今日のあの神饌は、誰がしたんじゃろうかと私が申しましたら、誰々が致しましたとこう言う。あれを見てから恐らく、久富先生がもうこりゃ自分な神饌の方にはタッチせんでも良いと思いなさるだろうと言うて、まぁ笑った事でしたけれども。もう先生方が沢山おりますし中々器用な先生方がおりますから、まぁ昨日の様なあんな見事な、久富先生はご本部参拝でしたからおられなかったんです。
でももうあれだけ出来ればもう自分が手を放しても良いと思いなさっただろうと言うて、まぁ話した事でしたけれどもね。果物と野菜だけは私が真似が出来んと言うて、もう必ず自分でやらねば気が済まん訳です。まぁとにかく有り難いことなんですけれども。そういうものが私共の内容に、信心の上である間は本当のことになってこないと思うです。そりゃもうこれはあなたの特技だと。こらもうあなたのまぁ独壇場だと言われ、思われる様な事でも、神様のおかげを頂いて出来るんだと。ほんならそういう特技を持った人が、特別のこの人でなからにゃ出来んと言った様な事がですね。
私でなからなければ出来ないと言う所には、私は結局自分の才覚才知だけしか発揮できないと思うです。段々ひとつの熟練とでも言うですかね。何でも稽古ですから一口に出来ますけれども、もうその事とても神様のおかげを頂かなければ出来ないと。私はいつも感心するですけれども、久富先生それからあの、久富繁雄さんが私の身体をあぁして、まぁおかげを頂いて下さる時に、もう必ずその前後に御祈念をなさることです。もう中々あの忘れがちですけれどもね。もう毎日毎日のことですから。
けれども、親先生の身体をあたるという事は、これはたた久富一郎だけ、久富繁雄のいうならこれは独壇場ですけれども。やはり神様のおかげを頂かなければ触れられない。神様のおかげを頂かなければ、本当の親先生が喜んで頂く様な、まぁあんまは出来んと。按摩というでしょうかね。まぁ毎日,日々の事でございますけれどもね。そういう心の状態というものがね。何をするにもなからなければいけないと言う事です。これは私は何時も思わせて頂くことなんですけれども。
こうやって御理解を皆さんに聞いて頂く。お話をさせて頂く。もう私がしようと思うたら、絶対出来ませんですお話は。こらもう不思議です。ね。とにかくあの無技巧の技巧ということを言われるが、もう神様のおかげを頂かなければ出来んという。今日はいっちょ、あげなこつばいっちょお話しようか何ていう思いがある時には、もうとにかくお話は出来んです。ね。こらもう一生涯私が、こりゃもう親先生の独壇場だと、まぁ言う方もありますけれども。
ほんならこと神様のお話になったら、自分では出来ん。神様のおかげを頂かなければ出来んという思い込みがあるところからです。ほんなら日々のテープを皆さんが聞かれるから、もう何回となしここから繰り返し聞かせてもらうし、御月次祭のお説教があるビデオに撮ってございますから、会合のあるたんべんに見せてももらい、聞かせてももらうけれども。本当に素晴らしいなぁと思うて、私自身がおかげを受けるんです。
私がしたお話。私がするというところには、あぁいう言うならば、何時までも尽きぬ有難さというものは、伴うてこないと思うんです。またそれでは人も助からないと思うし、自分も助からないと思うです。ね。神様の前にこれだけは、もうあなたのおかげを頂かなければ出来ることではないという思いがです。ね。まぁ神ながらなお話が出来るのじゃないだろうかという風に思います。ね。
あなたのおかげを頂かなければ出来ることではない。これがね、私はくずの子という事ではなかろうか。ほどかわいいと仰せられる、かわいいと言う心情を、もうそのまま真正面から受け止めれると言う事になるのじゃないでしょうか。信心して何を分かるかというと、いよいよ障子一重がままならぬ人の身という事であり、ね。われ無力であるということだと思うんです。
昨日私が、悲しいまでのお取次ぎを聞かせて貰うて、ね。まぁ本当に信心が分からにゃ、そうでもあろうとこう思わせて頂きましたが、ね。その方がもう合楽の親先生にお縋りするより他に手はないと言った様な思いが、昨日のお届けになった、その方がそのまぁ何々万歳というのではなくてです。万歳の形をしておられるけれども、とにかく神様の前に、無条件に降伏をした姿。
そしたらもう本当に自分でもおかしいくらい。まぁだお説教台の前に立たせて頂いて、これからお話させていただこうと思う。何でも別にその胸が一杯になるようなものでもないのにも関わらず、私がしばらく感動が、感動というかその悲しいまでの感動が、私の心の中に伝わってきたということはね。神様あぁいう姿に。氏子かわいいと言う思われるだけではなくて、もうすでにそういう、かわいいという働きが起こってくるんだと、いう風に思うんです。
信心、ぎりぎり分からせて貰う事が、障子一重がままならぬ人の身という事。そこからです、何にも出来ない自分、いわゆるもう我屑の子という、本当の自覚が出来た時に、本当の言うならば十全のおかげとでも申しましょうかね。がいただけれる時であるという風に思うんです。ね。どうぞこれは私の独壇場という事の内容の中にも、ね。神様のおかげを頂かなければと言う事が必要だということです。要るという事です。
どうぞ。